2023年8月5日 更新
目次と主な記事をお知らせします。
特集「視覚障害者と戦争」いくつかの角度から考える 日本盲教育史研究会事務局長 岸 博実
障害者団体と金融機関関係団体との意見交換会
被爆ピアノに魅せられて 鈴木 洋(新潟県)
そのとき私はどう生きるのか 盲学校弁論大会を聞いて 原田 義雄(岡山県)
連載 盲人、地球を歩く3 ニューヨークでまちづくり点検 嵯峨野 新次(東京都)
(表) 重度障害者等就労支援特別事業実施人数
総務局コーナー
1 私の困った、私の要求運動
2 原水禁派遣代表決まる
3 就労支援特別事業調査
4 活動記録
全国と地域の主な予定
(目次、終わり)
日本盲教育史研究会事務局長 岸 博実
ウクライナへの侵攻が長引くなか、ロシアに核兵器を使用させない包囲が求められます。アジアでのきな臭い動きを武力行使に短絡させない外交が望まれます。国内では、「戦争できる」体制づくりが国民の声を無視して進められることへの危惧が広がっています。
今、改めて、戦時下の視覚障害者や盲学校がどんな体験を強いられたのかを振り返り、平和への強い意志を共有するために、いくつかの角度から、考える素材を提供します。
戦時下の人々の体験には、障害の有無や種別を超えて共通する側面がありました。
その一方、障害の種別や程度に応じて、独特の困難が生じました。
戦時中の視覚障害者は、新聞や回覧の情報を得にくく、いざ空襲となると、安全な経路を見出してすばやく避難することが難しいなど、まさに命の瀬戸際に立たされました。
聴覚障害者は、ラジオの声を聴きづらく、「原爆のドン!さえ聞こえなかった」という証言があります。沖縄では、発語の不明瞭を日本軍からスパイと疑われた例があります。
肢体障害者については、東京の光明養護学校をのぞけば、教育を受ける機会もないまま、息をひそめて暮らさねばなりませんでした。がれきの中、避難も妨げられたことでしょう。
知的障害者も、教育の対象となされず、「役に立たない」と蔑視されました。敗戦が近づくころには、軽度の知的障害を有する人たちまでが兵士として戦場に送られています。
精神障害者は、病院や家庭の座敷牢におしこめられ「抹殺」された例や、死亡率の高さが指摘されています。ハンセン病の患者は隔離政策に苦しみ、病弱の人たちのための施策も貧困を極めました。優生保護政策からの断種は後の人生にも深い傷となりました。
明治維新の後、政府は文明開化と富国強兵を旗印に、我が国の近代化・中央集権化を推進しました。陸軍省編『大日本帝国陸軍省統計年報・衛生之部』(1891年)によれば、「全身発育不全」「足ノ畸形」「白痴」「盲」「聾唖」など50種が挙げられていました。
視力については、「銃の照準を合わせることのできる眼」を詳しくチェックする企図がくっきりと示されています。1944年に出た本『戦争と目』には次の文章が載っています。
「一億の国民が火の玉となって勝ち抜く為めに、先づ大切なのは眼である。眼が悪くては銃はうてない。飛行機には乗れない。日本には七万人の盲人がある。十二月八日宣戦の大詔を拝した時、この七万の盲人ほど残念に思ったものはなからうと思ふ、銃後で国土を護るにも、産業報国に挺身するにも先づ大切なるは眼である。」
15年戦争の侵略性を覆い隠し、「臣民」としての生き方を浸透させるキャンペーンが展開されました。視覚障害者に対しても、報道、組織、教育の3つが影響します。
①『点字毎日』の檄文(1130号・昭和19年1月6日付・裏表紙)
「愈々決戦第三年の新年を迎へた。敵は今こそ「世界総反攻」を敢行せんと叫んでゐる。中途半端でこの戦争は片づかないのである。苛烈深刻なる大東亜戦争には前線も銃後もない。一億が一人一人兵隊である。盲ひたると雖も我々十万盲人もその中の一員たることは勿論である。兵隊にはいささかな恣意も許されない。皇軍の軍紀は秋霜烈日絶対不可侵である。我々も又この軍紀の下に結集し完全なる兵隊になり切らう。」
②盲人団体が呼びかけたゼロ戦献納募金
1940年、『紀元二千六百年奉祝全日本盲人大会』が奈良の橿原で催されます。その報告冊子によると、大会中、「軍用機『愛盲報国号』献納ノ実現ヲ期ス」と決議されました。
ただちに全国の盲人や関係者1万3千人から合計4万8545円余が集められ、1942年3月に大阪歌舞伎座で献納式が挙行されました。『感謝御挨拶』には、「皆様の示された愛国の赤誠がこヽに実を結んで戦闘機一機を光栄ある帝国海軍に献納し大東亜戦争のためにお役に立ち得たことは誠に感謝感激」と書かれています。この愛盲報国号(ゼロ戦)は、「日本盲人号」と命名されました。
③国民学校令に基づく教育目標の改編
東京盲学校 国民学校案ニ準ズル盲学校初等部教則案
盲学校初等部ハ皇国ノ道ニ則リ盲児ニ必須ナル普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ本旨トス
戦局の悪化とともに、「空襲警報!」のサイレンを逸早く鳴らすために、近づいてくる「敵機」をできるだけ早く発見することが求められ、敗戦が近付く頃には盲人が駆り出されるようになります。
石川県の警察行政は、これに着目して実験と選抜を行い、能登の七尾と輪島に「盲人防空監視哨員」を配置していたことが確認できました。その実情については、『点字毎日』新聞が、戦後60周年を記念して連載した「視覚障害者と戦争 空白の一時代を考える」に載せられていて参考になります。耳の鍛錬用に、「敵機爆音集レコード」が作られ、いくつかの盲学校でそれを利用した訓練が行われました。
近年、海軍技療手として勤務した弱視者の体験も少しずつ掘り起こされています。
空襲被災のあった盲(唖)学校(授業停止を含む)…奈良・沖縄・平・神戸・名古屋・鹿児島・同愛・横浜訓・大阪市・浜松・豊橋・下関・香川・徳島・高知・岐阜・和歌山・大分・福井・愛知・佐賀・佐世保・八王子・広島・長崎
生徒・教職員の死傷例…平(校長・教諭2名)・福井(生徒・教諭)・長崎(校長)
原爆に直撃された学校…広島・長崎
①秘めやかなつぶやきの中に
山形県立盲学校長・鈴木栄助氏は『ある盲学校教師の三十年』(岩波新書)で、東京盲学校時代のエピソードとして「生徒たちは(略)グラマン戦闘機、B29爆撃機、などの機種別、高度別の音盤を聴取させられた」「夜、寄宿舎で『監視哨は、音楽科生が本命かな』と冗談半分にけしかけると、『音楽って純音によるものよ。爆撃のような雑音にも鋭いのかとごっちゃにされちゃ困るよ』とやりかえす生徒」がいたと回想しました。その言葉とこの生徒の「さびしい笑い声」は、軍国への静かな告発です。
②陸軍大演習反対の宣伝活動に加わった盲人
小野兼次郎(1899年~没年不詳)は、大正期に京都市立盲唖院鍼按科を卒業しました。「立命館中学を経て」立教大学予科に入ったとする史料があります。
小野は、早稲田大の学生などが結成した「暁民会」に属するようになり、第二回メーデーにも参加します。仲間の高津正道が次のように書いています。
「一九二一年の十一月には東京地方を中心に陸軍の特別大演習が行なわれた。この時をねらい、軍人、兵士に向かって『軍人諸君へ』と題する戦争反対!軍国主義反対!のリーフレットが暁闇をついて兵隊の泊っている民家にいっせいに配布され」た、と。そして、「小野は戸塚の暁民会本部を逃走し京都に走つたが、郷里の警戒厳重な為転転として各地を放浪し九州で様子を見計らひ今春門司から上海に行き、(中略)日本のエロシヱンコとも言ふべき男で非常に頭の好い詩人肌の青年で運動には頗る熱心な主義者であつたが、盲目の為に官憲の油断に乗じて盛んに活躍して居たものである。」(東京朝日新聞1922年7月5日付)
後、再び出国し、ウラジオストックに着いたあたりまでは分かっていますが、京都府立盲学校同窓会の名簿では「行方不明」とされ、足跡が途絶えます。
③プロレタリア音楽同盟に参加した弱視者
守田正義(1904年~1960年)は、東京盲学校普通科を卒業した弱視者です。1921年、17歳の頃、暁民会に出入りしたと、『守田正義の世界』(矢沢寛.みすず書房)の年譜に記されています。小野や鳥居篤治郎らとともに、エロシェンコや秋田雨雀から影響を受け、陸軍大演習に直面して、「小野と二人でアジビラを刷って兵隊の宿舎にくばろうと」したと証言しています。
守田は「独学で音楽の勉強を」して作曲を行い、プロレタリア音楽運動に加わります。1930年に発表した歌曲『里子にやられたおけい』が代表作です。それは、侵略政策に抗う一家を幼児の目から語るもので、最後にはあんちゃんが牢屋に入れられ、おけいは里子にやられるという展開。歌うことは禁じられます。戦後は、うたごえ運動にも加わりました。
(この稿、終わり)
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