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点字民報 2020年8月号 通巻650号

2020年8月4日 更新

 目次と主な記事をお知らせします。

目次

平和への思い語り継ぐ
 山田玲子(東京原爆被害者の会)
時事、憲法に関する世論調査に示された「民度」とは
 東郷進(東京)
持続化給付金・家賃支援給付金などの配慮を要望
 濱田登美(神奈川)
連載③ 耳で聞く絵本の実際
 須加栄(石川)
新入会員 5人の新しい仲間
 島田尚志(奈良)
総務局コーナー
 1 事務所外装工事着手
 2 頒布会から
 3 お詫び

(目次、終わり)

主な記事

平和への思い語り継ぐ

山田 玲子(東京原爆被害者の会)

 コロナウイルスの蔓延で、どこでも集会や学習会が開けません。全視協から毎年代表を派遣している原水禁大会も、オンラインでの集会になりいつもの、参加者集会は中止になりました。そこで編集委員会では、原爆体験の語り部語り部活動を長くされている山田玲子さん(東京原爆被爆者の会副会長)にお願いし、7月15日に全視協事務所でお話を伺いました。その要旨を報告します。

1 戦前から開戦の頃

 私は1934年(昭和9年)に広島市の己斐町で4人姉妹の末っ子として生まれ、それまでの尋常小学校が「国民学校」と名を変えた昭和16年に1年生になりました。12月に日本はハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まりました。ラジオでは勇ましい軍歌を流し、勝ち進む戦況を放送していました。年明けに「日本がシンガポールを陥落させた」と、早朝からにぎやかに放送し、学校では先生たちが子供たちに日の丸の小旗を持たせ、みんな大声で歌いながら町中を行進しました。

 それまで私の家族は、毎年近くの海山に弁当を持って行楽に出かけていましたが、2年生の頃に岩国へ、着飾って花見に行った時の楽しげな写真が残っており、当時はまだ平和な暮らしであったことがわかります。しかし次第に店から売り物が消えて、米や生活用品が配給制になり、生活は厳しくなってきました。ラジオの音楽や声もトーンが下がり、空襲警報が出るようになりました。学校の校庭や工場の空き地に防空壕を掘り、サイレンが鳴る度に防空頭巾をかぶってそこへ逃げ込みました。小学校高学年は集団疎開し始めましたが、5年生の私は、縁故疎開の当てがないので、集団疎開第2陣として8月9日に出発することになっていました。疎開で学校がカラになると教室は軍の宿舎になり、校庭は訓練場になりました。己斐町小学校は市の中心から約2.5キロ離れたところにありました。母たちは国防婦人団として防火訓練や延焼防止の建物解体を手伝い、姉たち女学生も毎日そこに参加しました。上の姉2人は女学校を出ていましたが、やや遠くの兵器の部品工場にかり出されていました。3月の東京大空襲の頃から広島でも空襲警報が頻繁に出ましたが、B29はいつも上空高く飛び去るだけでした。

 父はかつて日中戦争に行っており、軍都である広島では在郷軍人として訓練を担当し、主に市の中心から約700メートルの広瀬小学校が任地で、父は8月4日からそこで宿泊訓練に行っていました。

2 そしてその日から

 6日の朝、上の姉は早朝から工場に出かけ、次の姉とすぐ上の姉は非番で家にいました。朝8時から校長先生の話があり、みんな校庭に並んで聞いているとき、栄養不足と暑さから何人かが倒れたので、中断してみんな休もうとしました。その時、いつも飛ぶB29がキラキラ輝きながら、しかし上空でUターンしてきました、その瞬間、フラッシュのような強い光で何も見えなくなりました。防空壕へ逃げようとしましたが、辿りつく前に、猛烈に暑い砂が背後から激しく打ち付けてきて、飛ばされて転びましだ。倒れてきた木の下から這い出て、暑さから逃れようと校舎の向こうの大きな防空壕へ走りましたが、そこにはもう近所の人たちが来ていっぱいで中には入れない。快晴だった空は夕立の前のように暗くなり、急に雨が降り出し、びしょぬれになると、今度は寒くて震えました。大勢の人たちがぞろぞろ学校に向かって歩いて来るのを見て、「これは大変だ」と、道の瓦礫や人をかき分けて夢中で家へと走りました。家は物が散乱していましたが、中にいるはずの母と姉たちを大声で呼んでも返事がない。隣のおじいさんの言う通りそこで待っていると、姉たちを避難させていた母が走りこんできて助けてくれました。

 そこへ父が、2人の兵隊に支えられて血みどろのまま倒れこんできたので、寝かせる場所をやっとつくって父を横たえました。家の近く町内会館に数十人の兵隊がおり、父をボロ布でくるんで見てくれたので、私は母と、叔母の家に行こうと道に出ると、そこは傷ついた人だらけで歩けず、かき分けてやっと叔母の家に辿りついて、姉たちに会えました。兵隊たちは、苦痛にあえぐ父を戸板に乗せて叔母の家に運んでくれました。夜はずっと町中が燃えていました。明け方には、肉親を捜し回る人々の声が町にあふれました。工場に行っていた上の姉は2日目の夜に、胸や背中に大やけどを負いながら、やっと帰ってきました。姉にも父にもつける薬はなく、たかるハエを追い払おうと、団扇であおいでやるのがせいぜいでした。痛みに泣く姉の苦しい声を聞いて、それまで同じようにうなっていた父は、以後一切の苦痛をこらえて黙っていました。

 翌日、実家に置きざりにした荷物を取りに行こうと、すぐ上の姉と私が道に出ると、人が大勢倒れ、重なり合っている道で、誰か1人ぽつんと立っています。通り過ぎようとすると、弱よわしい声で姉の名を呼びましだ。振り向くと、焼けただれて目の口もわからない顔。驚いて走って逃げ、実家に急ぎました。その場面は鮮烈すぎて、姉も私も以後そのことは一切話しませんでした。その辺りでクラスの先生や生徒がみんな死んだのだと後から聞きました。親を待ち続けていたに違いないと、思い出して今も切ないです。

 翌日の9日、外ではガラガラと音が聞こえました。後で出てみると、あんなに折り重なって倒れていた人たちはすっかり見当たらない。トラックに次々死体を投げ込んで運び去ったようで、見ると小学校の校庭からいっぱい煙が立ちのぼり、人を焼く強烈な悪臭が立ち込めていました。

3 疎開から戦後へ

 集団疎開第2陣は15日に集合することになり、母が当時最高のごちそうのカレーを作ってくれましたが、家族は疎開に行かせたくない、私は行きたくない。みんな押し黙って、一口も食べられませんでした。約20人の子供が己斐駅から貨物列車で半日乗り、目的の駅に着いた時、「日本が負けた」と聞きました。先生は第1陣の疎開も引率した人で、疎開先のお寺にいる子供たちの親の消息を調べる役目がありました。馬が引く車に乗り、寺に着くと、先生は1人ずつ呼び出して、親の消息を伝えました。親が亡くなったとわかった子は、畑や山のほうに行って大きな声で泣きました。朝には境内に並び、東に向いて、「天皇陛下・皇后陛下、おはようございます」、西に向いて、「お父さん・お母さん、おはようございます」と最敬礼しました。元気に声を出せと言われましたが、泣き続けた子は声がかれて出ない。親は大丈夫だといわれた子も本当かと心配で声が出ませんでした。昼間は農作業し、もらって帰った少しの野菜を食事にしました。苦しい1ヶ月の疎開後に帰れることになりましたが、誰も喜びませんでした。

 戦争が始まってからは、先生や親や大人が厳しい顔で話すので、「いやです」とも「なぜですか」とも言えず、何でも我慢して「はい」と答え、自分の気持ちを押し殺して、まるで性格が変わったようでした。列車でもみんなこの先どうしていこうかと、ずっと黙ったまま。己斐駅に帰り着くと母が出迎えてくれ、初めてうれし泣きしました。粗末ながら焼け残った家に戻り、仲良しのけい子ちゃんやよし子ちゃんに会いに行こうとしたら、友達はみんな亡くなったと母から知らされ、大泣き。泣いても泣いても涙があふれました。

 10月から2学期が始まり、焼失した他の学校から子供たちが、ぼろぼろながらも焼け残った己斐町小学校に集まり、午前午後に分けて授業を受けました。
 1年前の戦中に撮った写真では、みんな手足も背筋もピンとして厳しい顔つきでしたが、戦後すぐに撮った記念写真では、窓ガラスが割れ、崩れかかった学校の前で、粗末な身なりの子たちがみんな明るく笑って写っている。貧しい中にも、あの激しくむごい戦争から解放された喜びがあふれている。家族も友だちも、つらかった戦争の体験は誰もずっと話せませんでした。

4 戦後の社会で

 6年生になり女学校を受ける頃に、先生たちは「これからは民主主義だ」と嬉しそうに言い、女学校では「戦争をしない憲法ができた。主権在民だよ」と先生は誇らしげに語りました。

 父はそれから20年間生き、時には痛みや炎症がひどくなって、体内からガラスの破片がギラッと光りながら出てきました。

 原爆では、その年のうちだけでも広島で14万人、長崎で7万人が苦しみながら命を落としました。己斐町小学校に運ばれた人は2300人。校庭に7つの溝を掘り、名前もわからぬまままとめて何日もかけて焼かれました。その後校舎は修理され、校庭は整地され、あのとき大勢の体が焼かれたその上で、今は体育の授業や運動会が行われています。

 全国の空襲の犠牲者たちが、水ももらえず助けもなく、苦しんで死んだあげく、ただ拾い集められ、名も聞かれず、同じようにまとめて焼かれたその場なのに、です。

5 戦争と核兵器をなくすために

 東京に来てからも、8月になるとあの時のむごい光景がよみがえり、忘れることはできません。何とかして校庭の隅にでも花を供えたいと思っていました。心ある若い先生が、原爆の日に子供たちを集め、PTAと協力してグランドでろうそくを灯して平和の歌を歌っていることを知り、連絡を取りました。それから毎年郷里に帰って参加していますが、悲劇の歴史を繰り返さぬよう伝えるものをつくりたいと、教育委員会や市長に、当時を証言する手紙を書き、慰霊碑を建てたいと要望を伝えました。秋葉市長や議員や校長や地域から賛同を得、当時を知る地域の人たちや市民、医師会や民主団体などからカンパを得て、やっと2010年に銅板の慰霊碑を建てることができました。そこに集まり、子供たちの作った紙灯ろうにろうそくを立て、平和のメッセージを供える。歴史を記憶にとどめるべく、異例の集いを毎年開いています。

6 語り部として

 私は戦後ずっと体験を口にしたことはありませんでしたが、ある行事で話す予定だった人の都合で代役を頼まれ、準備もなく豊島区役所に行きました。しかし話し始めると、当時の記憶があまりにも生々しく思い出され、ずっと泣きながらの語りになりました。以後この活動を続け、30年以上になります。
 これまで毎年ニューヨークの大学で3万人の学生に話したり、NPT世界会議に5回参加したり、各国の平和集会に出かけています。一見不真面目そうなアメリカの男子高校生たちも、次第に熱心に涙を流しながら話を聞き、とり囲んで質問や意見を言ってくれました。日本では生徒たちがみんな静かに行儀よく聞きますが、ほとんど質問がなく、こちらが不安になりそうなこともあります。
 私は原爆の被害をうけた当事者ですが、日本が当時アジアを侵略した事実を、常に忘れてはならないと思います。
 もう86歳になりましたが、現地で生き残ることができた者の魂の声を、1人でも多くの人に聞いてもらい、非人道的でむごい核兵器をなくせるよう、命ある限り、語り部を続けていこうと思います。

(まとめ:岡)

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