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点字民報2014年7月増刊「特集 点字1万署名、104、小選挙区制、事務所」

2020年8月24日 更新

編集 一般社団法人 全日本視覚障害者協議会
〒170-0003 東京都豊島区駒込1丁目19番15号 直枝ビル
電話 03-6912-2541 FAX 03-6912-2540
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郵便振替 00120-1-710878(一般社団法人 全日本視覚障害者協議会)
編集責任者 野島潔(のじま きよし)

目次

 はじめに
 その1 非核点字署名1万名やりぬく 1985~1988
 (資料1) 1万名までの足どり
 (資料2) 点字署名の集約数(88年7月15日集計)
 (資料3) 原水禁世界大会代表名簿
 (資料4) ヒロシマ・ナガサキアピール
 その2 104有料化反対と国民会議 1885~1994
 (資料5) 104有料化反対日誌
 その3 小選挙区制反対で座り込む 1994
 その4  全視協の砦を築く 1983~2011
 編集後記

(目次、終わり)


特集 点字1万署名、104、小選挙区制、事務所

表紙の写真 LOVE・PEACEの点字Tシャツを着て作業する仲間。左から、子供をおぶった滝憲子(たき のりこ)、山城完治(やましろ かんじ)、山城一枝(やましろ かずえ)の各氏。(1984年、新宿区の東視協事務所)


はじめに

 点字民報社の設立と『点字民報の創刊を経て、1967年の結成から今日まで、全視協は、堀木訴訟と社会保障、上野訴訟と落ちない駅ホーム、点字ブロックとまちづくり、早稲田闘争とあはき、解雇撤回と雇用・就労、補装具・日常生活用具の拡充、「ヒロシマ・ナガサキアピール」点字1万名署名、104有料化反対と国民会議、小選挙区制反対と座りこみなどを通して、数々の成果を歴史に刻んできました。
 組織の問題では、「婦人の集い」から女性部結成へ、「青学交流キャンプ」から青学部の結成へ(そして衰退)、友好団体である全国理療教育研究会と、全国病院・介護マッサージ問題連絡会の結成、「手をつなごう大集会」に始まる要請行動の蓄積、そして、悲願の事務所建設と専従職員の確保など、その形を築いてきました。
 本増刊号は、思い出深いこれらの取り組みの中から、点字1万名書名、104、小選挙区制、事務所・専従者問題の4つを取り上げ、当時の記録を基に再現しました。
 当時若かったみなさんには、懐かしい記述も沢山出てくると思いますので、運動の今日的な意義を語り合う材料にしていただけるならば幸いです。


特集 その1 非核点字署名1万名やりぬく 1985年~1988年

写真 1万名点字書名の前で記念写真(荒川の全視協事務所)

1 本気になるまで

 1985年2月、「第2のヒロシマ、第2のナガサキをこの地球上のいずれの地にも出現させてはなりません」と呼びかけた核兵器全面禁止・廃絶国際署名提唱と推進のための協議会議の決議である「ヒロシマ・ナガサキアピール」とその支持署名が提起されました。全視協はこれに応えて、「点字1万名署」の目標を掲げましたが、最初からみんながその気になっていたわけではありません。
 1万名の唯一の根拠は、総選挙における点字投票の数でした。ちなみに、1986年の第38回総選挙の点字票は、1万2875票でした。
 同年5月の全視協第17回岩手大会で決議をした後も、岡山のOさんは、「1万なんてあつまりゃあせんわ」と言い、奈良のKさんは、「来年の夏なんて言わずに今年中に一気に集めてまえ」と言いました。現実派、急進派を代表する2人の意見の方がみんなの本当の気持ちでした。これまでの点字署名の最高は、上野裁判で集めた1千名。1万名の実感など、あるはずがなかったからです。
 そんな気分を一掃してくれたのが、新潟の仲間でした。7月末には、350の目標のうち250名を集めたのです。「やればできるじゃないか」とみんなが思い始めました。それに、本部から毎月点検が入る、『点民』に記事がさいさい載るので、「どうも本気らしい」と、気分が変わっていきました。

2 1万名へ動き始める

 「票が98しかない高知県で300集めろという科学的根拠を示してほしい」と、Mさんに追求されたことがありましたが、高知は381を集め、点字票との比較で398%、日本一になりました。
 「断る人は、一人しかいませんでした。盲人協会関係者も取り組んでくれました。何ではよやらんかったんかねえと叱られたり、あんたらががんばっとるんじゃあねえと晴眼者に励まされたりしました」(広島)、「訪問先では、肩や腕を撫で回されて、先生太ったねえとか大変な歓迎を受けました。青年部の藤本みつ子さんも、14名集めました」(高知)
 『点字毎日』にの橋本宗明会長の訴えが掲載されると、長崎から10数名の署名が届きました。
 アピール署名国民過半数達成のための全国交流集会では、「握手を求めてくる人、点字のポツポツを蛍光灯にかざしてみる人、用意した点字署名用紙300枚があっという間に、会場を去る参加者の手から手に引き取られました」。
 「藤原義朗(ふじわら よしろう)さんは、いつも署名用紙と点字器を肌身離さず、仕事の帰り道は毎日コースを変え、治療院を見つけては飛び込みました」(高知)。
 「日本点字図書館前で来館者を待ち受け、署名をお願いしました。本間館長も喜んでしてくれました」(東京)。
 「点字署名7千に」という『点字毎日』を見て、用紙がほしいという手紙が16通届きました。全視協事務局が816団体に依頼したところ、京都ライトハウスから、「1千名分の用紙を送れ」と返事が来ました。
 しかし、予定した86年の夏、87年の夏、そして10月の全視協20周年記念大阪大会になっても1万の嶺には届きません。
#REF!  7月24日、記念祝賀会の日。点字署名は1万195名になっていました。

3 世界大会の舞台に立つ

 88原水禁世界大会(広島)には、高橋幸子(たかはし ゆきこ)さん(埼玉)、大里晃弘(おおさと あきひろ)さん(神奈川)の2人が参加しました。全体会では、藤野高明(ふじの たかあき)副会長が、世界の代表の前で報告に立ちました。
 この時点で、アピール署名は世界151カ国に広がり、わが国においては、ビキニ被災時の反核署名3400万を超えて、3527万の人類未到の分野に到達していました。

4 国連に届ける

 署名を国連に届けるチャンスがやってきました。03年、原水爆禁止日本協議会の代表団に、全視協の三(さん)瓶(ぺい)和(かず)寿(ひさ)(埼玉)さんと緒(お)方(がた)淳(じゆん)子(こ)さん(大阪)が同行することになったのです。
 9人の一行は、10月22日、国連で軍縮を担当する阿部信泰(あべ のぶやす)事務次長と国連本部内で会見しました。被爆60周年を迎える2005年に向けて、国連が核廃絶の促進に積極的な役割を果たすよう要請しました。三瓶さんと緒方さんは、1万542名の点字書名を手渡しました。

5 禁止法の制定めざす

 今年は、広島と長崎に原爆が投下されてから69年目の夏を迎えています。たった一発の原爆によって、その年の終わりまでに、広島で約14万人、長崎で約7万人もの命が失われました。
 いま世界には約1万6000発もの核兵器があります。核兵器をなくすためには、他の大量破壊兵器と同様に、国際法で禁止しなければなりません。2013年の国連総会では、加盟国の7割を超える国ぐにが、核兵器をつくることも持つことも使うことも全て禁止する条約の交渉を始めるべき、という決議に賛成しました。
 2009年5月、国連本部で開かれたNPT(核拡散防止条約)再検討会議の準備委員会に秋葉忠利(あきば ただとし)広島市長と田上)富久(たうえ とみひさ)長崎市長が出席しました。秋葉市長は2020年までの核兵器廃絶を強く訴え、各国政府が核兵器廃絶への行動をただちに起こすよう呼びかけました。また田上市長は、バラク・オバマ米大統領が提唱した世界核安全サミットを長崎で開くよう要請しました。
 来年には、2015年NPTの用検討会議が開かれます。いま、被爆国の草の根の声を大きく世界に響かせることが大事です。

(資料1) 1万名までの足どり

 1985年
 2月9日 「ヒロシマ・ナガサキアピール」発表。
 4月 『点民』、「核兵器全面禁止・廃絶の2つの署名のお願い」掲載。
 5月 協第17回岩手大会、「86年夏までに点字書名1万名」決議。
 7月 新潟、「250名獲得」で先陣切る。
 8月 『点民』、「核兵器全面禁止への道」を特集。
 11月 署名、1745名。
 1986年
 5月 署名、2932名。
 7月 『点民』、原水禁大会までに1万名を」の訴え掲載。
 8月 署名、5585名に倍増するも、期限に1万名届かず。
 9月 署名、6500名。『点民』、「広島、7月で130名」を紹介。「アピール署名国民過半数達成のための全国交流集会」で報告。
 11月 『点民』、「アピール署名の訴え」を掲載。
 1987年
 1月 『点民』、原水爆禁止日本協議会の赤松事務局長が登場。
 4月 『点民』、「核兵器ノー、広島のある国で平和を願うなら」を特集。
 7月~8月 全視協事務局の訴えに、922名の署名が返る。
 10月20日 第20周年記念大阪大会檀上に8991名の署名積む。第3回国連軍縮特別総会に向け再スタート。
 1988年
 6月 署名、9900名。
 6月19日 国連軍縮特別総会中に1万名を突破。
 7月24日 1万名突破祝賀会(東京根津会館)。
 写真 喜屋武真由実(きゃん まゆみ)さんと藤原義朗(ふじわら よしろう)さん

(資料2) 点字署名の集約数(88年7月15日集計)

 都道府県   点字票   点字署名 票に対する署名のパーセント
 青森      73    105  144
 岩手     156    253  162
 宮城     191     12    6
 福島     230     42   18
 埼玉     279    530  190
 千葉     289     46   18
 東京   1,258  1,841  146
 神奈川    494    664  134
 新潟     358    664  185
 石川     117     68   58
 長野     313    184   59
 静岡     499    200   40
 愛知     578    208   36
 大阪     960  1,011  105
 兵庫     618    741  120
 奈良     145    222  153
 和歌山    168    372  221
 岡山     191    604  316
 広島     320    405  127
 愛媛     350    469  134
 高知      98    381  389
 福岡     634    865  136
 沖縄      86    198  230
 全国  12,875 10,195   79

(資料3) 原水禁世界大会代表名簿

 86年 藤原義朗(ふじわら よしろう)(高知) 喜屋武真由美(きゃん まゆみ)(大阪)
 88年 大里晃弘(おおさと あきひろ)(神奈川) 高橋幸子(たかはし ゆきこ)(埼玉)
 89年 三瓶和寿(さんぺい かずひさ))(東京) 中島陽子(なかじま ようこ)(東京) 山崎ちどり(やまさき ちどり)(福岡)
 90年 加藤厚美(かとう あつみ)(神奈川)
 91年 佐藤晴美(さとう はるみ)(東京) 深谷佳寿(ふかや よしひさ)(東京)
 92年 山崎ちどり(やまさき ちどり)(福岡)
 93年 生田行信(いくた ゆきのぶ)(高知) 寺西昭(てらにし あきら)(東京)
 94年 福島修治(ふくしま しゅうじ)(福岡) 福永智洋(ふくなが ともひろ)(大阪)
 95年 内田邦子(うちだ くにこ)(東京) 三瓶和寿(さんぺい かずひさ)(埼玉)
 96年 松本雅典(まつもと まさのり)(埼玉)
 98年 愛甲和広(あいこう かずひろ)(大阪) 松本康治(まつもと こうじ)(愛媛)
 99年 寺西昭(てらにし あきら)(愛知) 野尻誠(のじり まこと)(東京)
 00年 川井由美子(かわい ゆみこ)(埼玉)
 01年 愛甲和広(あいこう かずひろ)(大阪)
 02年 天野愼哉(あまの しんや)(広島)
 03年 三瓶和寿(さんぺい かずひさ)(埼玉) 柿本淳子(かきもと じゅんこ)(大阪)
 04年 上村宏則(かみむら ひろのり)(千葉) 原田義雄(はらだ よしお)(大阪)
 05年 石川絹代(いしかわ きぬよ)(神奈川) 上村宏則(かみむら ひろのり)(千葉)
 06年 本木芳浩(もとき よしひろ)(広島) 吉沢美年(よしざわ みとし)(広島)
 07年 滝沢由紀子(たきざわ ゆきこ)(東京) 田中章治(たなか しょうじ)(東京)
 08年 野島潔(のじま きよし)(神奈川) 前出和子(まえで かずこ)(大阪)
 09年 梅尾朱美(うめお あけみ)(愛知) 永澤信幸(ながさわ のぶゆき)(千葉)
 11年 永田征太郎(ながた しょうたろう)(高知)
 12年 氏野富秀(うじの とみひで)(大阪) 岡真澄(おか ますみ)(埼玉)
 13年 黒田一郎(くろだ いちろう)(神奈川) 村上直人(むらかみ なおと)(岩手)
 14年 岡村晴朗(おかむら はるお)(東京) 阪田明義(さかた あきよし)(福岡)

(資料4) ヒロシマ・ナガサキアピール

 ヒロシマ・ナガサキと、第2次世界大戦の終結から40年がたちました。
 あの悲劇を2度と許さないという被爆者をはじめ世界諸国民の願いにもかかわらず、はてしない核軍拡競争によって、ヒロシマ・ナガサキで使われた原爆の100万発以上の核兵器が蓄積されています。
 核兵器の使用は、人類の生存とすべての文明を破壊します。
 核兵器の使用は、不法かつ道義にそむくものであり、人類社会にたいする犯罪です。
 人類と核兵器は絶対に共存できません。
 いま世界各地でおこっている核戦争阻止のための有効な諸活動の発展とともに、国際的な共通の課題として、核兵器を廃絶することは、全人類の死活にかかわる最も重要かつ緊急のものとなっています。
 広島、長崎の地から、私たちは被爆者とともに、そしてもはや帰らぬ死者たちにかわって訴えます。
 第二のヒロシマを、
 第二のナガサキを、
 地球上のいずれの地にも出現させてはなりません。
 いまこそ私たちは、核兵器全面禁止・廃絶を求めます。すなわち、核兵器の使用、実験、研究、開発、生産、配備、貯蔵のいっさいの禁止を、すみやかに実現させましょう。
 1985年 2月6日 広島にて 9日 長崎にて
  (核兵器全面禁止・廃絶国際署名提唱と推進のための協議会議)


その2 104有料化反対と国民会議 1885年~1994年

写真  東京・千代田区内幸町のNTT本社前抗議行動

1 いち早く立ち上がる

 全視協は、1985年以降94年にかけて、NTT104の有料化に反対してたたかいました。
 この記事は、全視協と通信産業労働組合が主体となって、「104有料化反対国民会議」をつくり、巨大資本NTTに挑んだもので、「鰯が鯨に噛みついた」闘いの記録です。
 いち早く立ち上がったのは全視協でした。NTTが分割民営化された85年4月11日から40日後に開催された第17回岩手大会で、「電電公社の民営化にともなう料金値上げ・サービス低下に反対する特別決議」を採択しました。
 「視覚障害者にとって、電話は、仕事や日常生活上、欠くことのできない重要な機器です。昨年おきた、世田谷電報電話局の火災では、区の大多数の地域が、『陸の孤島』と化し、私たちの仲間も影響をうけ、2週間もの間、患者の予約が1件しかないという事態が起りました。また、全盲者にとっては、居ながらにして、用を足すたしたり、各種テレホンサービスにより、多くの情報を収集することができます。このようなことからも明らかなように、電話料金の値上げや、104番号案内の有料化など、各種サービスの低下は、視覚障害者が生きていく上で重大な問題です。大企業本位の運営ではなく、国民本位の運営を要求するものです。」

2 104の意義を考える

 「東京電話番号案内局沿革史10年のあゆみ」(電電公社、1972)に、104の役割がNTTにも引き継がれるべきことを示唆する指摘があります。
 「電話番号案内業務の本質的なあり方については、たんに企業的な立場からのみ論じるべきものでなく、公衆電気通信法の普遍的な精神に準拠しつつ、また、社会の実態、慣習をふまえたうえで論じられるべきものであろう。」「利用者が通話を行なううえで電話番号を知得すること(あるいは知得していること)が絶対の要件となっていることを考えれば、電話番号案内サービスは公企業としての公社に課せられた社会的な責務であるといわねばならない。」

3 有料化の口実とねらい

 104有料化の真のねらいは、ずばり3500億円といわれる番号案内にかかる経費の削減と人減らしにあります。そしてその口実は、①利用者に片寄りがある、②電話帳が普及している、③今後設立される予定の第2以下の電電との競争力の確保でした。とりわけNTTは、「2割の利用者が8割の番号案内を独占している」と盛んに宣伝しました。
 「104有料化を許すな」(『点民』56年7月)には、「『利用者が片寄っている』なら、かからない104の犯人である企業が責任を負うべきで、国民に責任を転嫁するなどとんでもありません。『電話帳が普及した』といっても、日本中の電話帳をかついで歩ける人は先ずいません。NTTの85年度の経常利益は3161億円。『競争力の確保』にはあまりあって十分だったからです。」と指摘しています。」

4 「食堂のメニューと同じ」

 全視協は、「104は食堂(レストラン)のメニューと同じ。無料があたりまえ」のスローガンの基に運動を進めました。
 その内容は、NTT・郵政省(当時)への要請、真藤恒(しんどう ひさし)社長宛反対葉書要請、本社・オレンジセンターに抗議電話、ステッカーの貼付、赤地に白字ののぼり旗を立てて座り込み・集会、地方議会に意見書採択運動など多彩でした。その力を引き出したのは、「NTT104有料化反対国民会議」(市川邦也(いちかわ くにや)会長)でした。
 国民会議は、無料104の存続とオペレーターの雇用を守るとともに、国民の電気通信事業を守るたたかいとなりました。
 88年9月8日、東京千代田区の麹町弘済会館で行われた「NTT104有料化反対国民会議」結成総会で、東郷進(とうごう すすむ)全視協事務局長(当時)は、「視力障害者だけ無料にしようとするNTTの分断政策を、国民会議として認めることは出来ない。番号案内は国民全体の問題であり、電気通信事業の民主的運営を保障するためにも、阻止するまで全力をあげてたたかう」(『通信労組』89号)と述べ、結成宣言は、「5千億円と日本一もうけている企業が、電話帳を引こうにもひけない弱者(視覚障害者・肢体障害者・高齢者・在日外国人)、国民から番号案内料をとるというのはまさに弱いものいじめ、知る権利・生存権などの基本的人権を侵害するものと指摘。NTTによる104有料化のためのあらゆる口実、動きを許さず断固反対し、ねぱり強くたたかう」(『通信労組』89号)ことを呼びかけています。
 運動は全国に広がりました。その一つを山梨県視覚障害者民主協議会の伊東一敏(いとう かずとし)さんの「奮闘した山視民協」の中から紹介します。
 「有料化に反対することは元より、各種電話料金値上げの動きを許さず、97年の夜間・早朝の番号案内の廃止計画を撤回させるまでの運動の足取りを辿ってみて、今では考えられない奮闘ぶりに驚きすら感じます。葉書を1千枚・2千枚・署名を1千筆集める、そんなことが良くできたと思います。」「ではなぜここまで奮闘できたのか。①今と違って、固定電話は誰でも使い、視覚障害者にとって生きていくうえで必要不可欠なものであること、②視覚障害者だけが良くなればいいというのではなく、利用者・国民との共通の利益を守る立場に立って、共に運動したことが、無料化継続や番号案内の夜間・早朝の廃止計画を撤回させる力になった。」

5 ふれあい案内勝ち取る

 これまでみた運動によって私たちは、おおむね2つの成果を得ることができました。
 その第1は、視覚障害者などへの無料番号案内などの「ふれあい案内」を残すとともに、第2に要求に基づく国民との連帯の力を学びました。
 運動によって勝ち取った成果を活用していただきたいと思います。(ふれあい案内の登録申し込み、問い合せは、フリーダイヤル:0120-10417です。)
 解釈改憲容認反対、原発ゼロを求める行動、TPP反対など1点共同がいま広がっていますが、25年前の全視協の運動は、その土壌の構築に貢献したものではないでしょうか。
 全視協は、その歩みを進めるために平和と人権を大切にする社会づくりに積極的に参加しています。私たちは、この歩みをこれまで見てきた運動に学びながら、今後も進めたいと思います。

(資料5) 104有料化反対日誌

 1985年
 4月1日 公社廃止されNTTに。
 5月12日 第19回岩手大会で特別決議。
 1986年
 6月 『全視協ニュース』、「104有料化反対」表明。
 7月 『点民』、山城完治(やましろ かんじ)さん投稿。
 1988年
 1月 真藤恒(しんどう ひさし)社長、104有料化を公式表明。
 5月5日 真藤社長、104「50円」打ち出す。
 6月13日 手をつなごう中央要請行動NTT交渉。
 7月4日~6日 新潟、NTTオレンジセンターに集中抗議。
 20 和歌山、支社交渉。
 8月 署名運動開始。新潟・福岡、「街頭行動」。
 9月8日 「NTT104有料化反対国民会議」結成」。第1回中央行動。
 13日~12月22日 国民会議「木曜早朝行動」(計12回)。
 26日 東京都中野区議会、反対意見書採択。東京都小平市・豊島区・板橋区も続く。
 10月13日 第2回中央行動。
 25日 NTT、104有料化見送り。(鰯が鯨に勝つ)
 27 国民会議、郵政省交渉。
 11月6日 千葉、街頭宣伝参加。
 10日 第3回中央行動。奈良、「NTT有料化反対県民集会」。
 25日 兵庫、支社交渉。
 12月20日 新潟県議会、意見書採択。
 1989年
 3月12日 大阪、「決起集会」。
 6月 埼玉県議会、意見書採択。続いて、神奈川県、石川県、京都市、名古屋市、新潟県下90市町村、福岡県か24市町村等、全国で150超自治体(2千万超住民)。第2次署名12万名突破。団体署名2335団体。郵政大臣宛葉書2万通。
 1990年
 2月26日 公聴会で、市川邦也(いちかわ くにや)国民会議議長(全視協会長)が有料化反対口述。日盲連村谷昌弘(むらたに まさひろ)会長は視覚障害者の無料存続口述。
 3月27日 電気通信審議会、「おおむね妥当」答申。反対の利用者78%でも有料化認可。国民会議は、新聞6紙、テレビ6局、週刊誌2誌、月刊誌1誌の取材受ける。
 9月30日 「104せめて10円に!」を掲げ、「104有料化に反対する文化とトークの集い」(アクロスあらかわ)開催。台風接近の中700人参加。
 1993年
 7月 NTT公衆電話料金値上げに伴う公聴会、東郷進(とうごう すすむ)事務局長口述。
 1994年
 6月 国民の電話を考えるシンポジウム。電気通信審議会が電話料金の年内凍結を発表。 


その3 小選挙区制反対で座り込む 1994年

1 小選挙区制成立の経緯

 全視協は、1994年1月10日から国会会期末の29日迄の間の17日間、「小選挙区制反対」を主張し参議院議員会館前で座りこみを行いましたが、先ず、小選挙区制を含む政治改革四法が成立した過程を、おさらいしておきます。
 93年8月 7月18日実施された第40回総選挙の結果を受けて、細川連立政権(社会党、新政党、公明党、日本新党、民社党、社会民主連合、民主改革連合、さきがけ)が発足。55年続いた自民党政権がつぶれ野党に転落。
第128回臨時国会(93年9月17日~94年1月29日、135日間) 内閣が政治改革四法案を提出。小選挙区比例代表並立制と政党交付金の導入を柱とする法律群である。
 1980年代後半、金権政治に対する国民の批判が強まり、その対案として、自民党は、金がかからない選挙制度の「代名詞」として衆議院の小選挙区制の導入を主張。一方、社公民3党は、獲得票数と議席数の比例性が高い小選挙区比例代表併用制を対案とした。また共産党は中選挙区制のまま、一票の定数是正を主張した。
 共産党を除く両派は、小選挙区比例代表並立制で折り合ったが、その内容に違いが見られた。すなわち、連立与党原案は、「小選挙区250、比例代表(全国区)250。2票制」であり、対する自民党案は、「小選挙区300、比例代表(都道府県ブロック)177。1票制。」であった。
 93年11月18日 衆議院で連立与党案可決(賛成270、反対226)。自民党案否決(賛成225、反対278)
 94年1月21日 参議院で連立与党案否決(賛成118、反対130)。与党の造反組多数による。両院の議決に不一致が見られたので、攻防は両院協議会の場に移されたことになった。
 1月26日 両院協議会、両者折り合わず、未了。 
 1月27日 両院協議会、同じく未了。ここで、土井衆議院議長(社会党)が斡旋に動き、開かれた細川首相と河野自民党総裁の「トップ会談」で合意。合意内容は、小選挙区300を250に、比例代表は全国単位から11ブロック単位に、企業・団体献金は「個人献金」から「1団体まで容認」にと、修正後の政府案からも大幅に後退した内容であった。
 1月29日 両院協議会、細川・河野合意の内容で多数可決。これを受けて、両院協議会の成案を、衆参両院で可決成立。

2 手記から見えてくるもの

 小選挙区制版対の点字署名は短期間に2566名集まり、議員会館前の座りこみでは、一部の応援者を加えて135人が参加。のべ491人・1895時間座りました。報告集の中の手記には75人が名を連ねました。吉川美千代さんと、高橋琴枝さんは、全日参加しました。
 山道正一(やまみち しょういち):行動提起を聞いたとき、あの異常な警備の中でできるのか、障害者がなぜ先頭を切ってやらなければならないのかと疑問を感じたが、ともにたたかっている仲間を心強く感じた。
 滝修(たき おさむ):負けたとは思っていない。むしろ、配色濃厚となった卑怯な連中がルールなど無視して試合を投げ出したのだ。
 山本栄治(やまもと えいじ):2日14時間の参加だったが、がんばりがいのある行動だったと思います。
 平野力三(ひらの りきぞう):国会期大幅延長の中、国会を包囲しうめつくすような行動が必要だと事務局長に進言したのが実現して良かった。
 岡村章三(おかむら しょうぞう):冷たい雨風も肩を寄せ合いずらり座れば温もりを感じる。1日座っていると、仕事を終えて駆けつけ、1時間・2時間座りこむ会員の気持ちが元気にさせる。
 池ケ谷勝美(いけがや かつみ):3週間続くかな思ったものだが、日に日にメンバーが増えてきた。ホカロン、中華まん、おにぎりの差し入れ。「風邪を引かないように頑張ってください」と励まされた。
 村田陽太郎(むらた ようたろう):たとえ小選挙区制が導入されて非民主的な世の中になっても、私は反対したという証のために座り込んだのだという自信が持てた。
 市川邦也(いちかわ くにや):即時対応をしなければという事情から正副会長の一方的な裁断でお願いしたが、参議院否決の1月21日の感動は一生の私の胸で燃え続ける。
 小日向光夫(こひなた みつお):寒がりで恐がりの僕だったが、ごく普通の視覚障害者が主権者の一人として憲法に保障された権利を堂々と行使したところに値打ちがあった。
 鈴木彰(すずき あきら):私たちの行動が、仲間の大きな励ましになった。
 菅井孝雄(すがい たかお):国会内外の良識ある人々を励まし、参議院本会議での否決に結びつく少なからぬ原動力になったものと思う。
 楠田房雄(くすた ふさお):1月10日は私の42歳の誕生日。歴史が今後どのように動いていくにせよ、誕生日が巡ってくる度に思い出すだろう。
 杉田直枝(すぎた なおえ):14日、雪が雨になり、立って足踏みをしていた。17日、朝から大風が吹いて横断幕が吹き飛ばされそう。19日、アコーディオンを聞きながら歌をうたった。22日、今日は静かな日。24日、明日から衆議院に移動する相談が始まった。26日、一番穏やかな日だった。29日、いよいよ山場の日だ。一面は銀世界。ラジオで結果を聞いた。国民の声が届かないのか、がっかりした。
 山城完治(やましろ かんじ):水曜日は私が班長の日。10時に仲間を待っていると、制服の警官が色々と聞いてくる。私服も来てしつこくつきまとわれた。
 岩元秀雄(いわもと ひでお):「障害者だからやるのだ」と言われて、反対していた私はやっと納得しました。あそこまで押し込んだ国民的運動の一端を担えたことを誇りにしたいと思います。
 藤野高明(ふじの たかあき):20日、大阪市盲の藤嶋先生と参加しました。64歳の市川会長が10時から7時までほとんど毎日座っておられる姿は、動揺している国会議員に無言の強力な圧力になったはずです。
 橋本スミヨ(はしもと すみよ):防寒の工夫がされており、毎日配られるホッカイロでお尻に低温やけどをしたものの、幸運にもそれ以来神経痛が治ったらしい。
 井上武・百合(いのうえ たけし ゆり):参議院で否決と喜んだのもつかの間。密室会談で可決・成立。これでは参議院無用としかいいようがない。
 阿部正文(あべ まさふみ):火曜日の班長として参加しました。寒くて寒くて、家に帰ったら38度の熱が出ていたこともありました。
 吉川均(きっかわ ひとし):実のところ私は座りませんでしたが、横断幕のスローガンやゼッケンを書くことで参加しました。
 吉川美千代(きっかわ みちよ):事の重大さも知らずに毎日座布団とお菓子を持ってピクニック気分で楽しんだのは私だけでしょうね。
 春日満春(かすが みつはる):ラクダのシャツと股引を着込んで行ったのに、日向ぼっこみたい。参議院での否決で、いくらか役立てたのかと思ったのに、談合でひっくり返されてくやしくてたまりません。
 葛貫重治(つづらぬき しげじ):談合に土井衆議院議長が深く関わったことは、日本の議会制民主主義の重大な汚点として、日本の現代史に書き加えられなければなりません。
 伊藤長治(いとう ちょうじ):本当は残念です。でも、闘志がなくなったわけではありませんので、これからもいろんな問題での運動にがんばらなければと思っています。
 梅尾博也(うめお ひろなり):名古屋から、やっぱり出かけていって一緒に感動する体験は違うのだと思います。自分も全視協の一員であることに誇りを覚えました。
 馬渡貴美子(まわたり きみこ):1月21日に参加しました。前日に梅尾朱美さんから「明日東京に行こう」と誘われてびっくりしました。そして、あの歴史の1頁を飾る画期的な瞬間をみんなと共にすることができました。
 梅尾朱美(うめお あけみ):1月21日の一番うれしかった日に参加しました。愛知でも小選挙区制は認められないという取り組みはみんなの知恵と力を集めた取り組みになったと思います。

3 確かな目と不屈の勇気

 小選挙区制の効用として、「政権交代を可能にする」というのがありました。しかし、細川政権自体、衆議院の中選挙区制のもとで生まれた8党連立政権でした。また、「政権交代可能な2大政党に収束する」というのもありました。衆議院に小選挙区が導入されてから6回の総選挙がありましたが、選挙の度に政党の離合集散が繰り返され、現在国会に議席を持つ党は13を数えます。「金のかからない選挙」というのもありましたが、企業・団体献金は温存されたまま、政党助成金の奪い合いが続いています。
 小選挙区制の導入に際して、第3の権力であるべきマスコミがペンを置き、逆にこれらの主張を垂れ流しました。
 憲法の前文に、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」と書かれています。現在の国会は、「正当に選挙された」ものとはどうしても思えません。衆議院の小選挙区制はもとより、参議院の選挙区制のうち31が小選挙区です。「違憲」判決が出るのは当然です。
 小選挙区制導入の真の狙いは、今日の政情にはっきりと読み取ることができるでしょう。
 小選挙区は、民意をゆがめ、多数党に少ない得票で多数の議席を与える偽りの選挙制度です。1選挙区1人の選挙制度は、政党や候補者の個性を出にくくし、議員の質の低下を招きます。ますます多様になっていく国民の生き方や意見を受け止める議員が生まれにくくなります。
 小選挙区制は、このような弊害ゆえに、今日の1強多弱といわれるような政情を作りだし、社会保障の改悪、消費税率の引き上げ、秘密保護法の制定、憲法9条の解釈改憲などの重大な案件が、いとも簡単に通過する事態に至っているのだと思います。
 今では、国会前座りこみや官邸前行動がすっかり定着した感がありますが、まだ誰もやらなかった国会前座りこみ戦術を全視協が行使した裏には、小選挙区の本質を見抜く確かな目があり、権力を恐れない不屈の勇気があったからだと思います。


その4 全視協の砦を築く 1983年~2011年

写真 事務所建設のための高橋竹山コンサートで挨拶する橋本宗明(はしもと むねあき)会長(当時)

1 事務局長宅が事務所

 全視協の最初のうちは、事務局長自宅に本部を置いていました。
 1967年5月の結成から5年間は初代事務局長である大阪の西)岡恒也(にしおか つねや)さん宅が事務所になっていました。72年の第5回神奈川大会で本部を東京に移してからは、次の事務局長を引き継いだ黒岩瀧市(くろいわ りゅういち)さんの自宅が事務所となりました。81年の第15回東京大会で黒岩さんが退任され、83年までの一時期、大阪の藤野高明(ふじの たかあき)さんが事務局長の任に就きました。しかし、日常的な事務局の仕事を果たしていたのは事務局次長の東郷進(とうごう すすむ)さんでした。

2 事務所建設の決意固める

 80年代に入ると、全視協を取り巻く状況は飛躍的に変化しました。
 先ず、私たちの組織そのものの会員が増えていきました。80年の会員1133人から、83年の9月には1377人になっていました。他団体との協力・共同の関係も一層拡大していきました。また、視覚障害者の切実で多様な要求を実現させる真の力量が問われ期待も高まっていきました。
 黒岩さんの住まいの荷物が東郷さんの家に運び込まれ、1DKの台所は段ボール箱で占領されていました。それで、「荷物を動かさなければ冷蔵庫のドアが開かない」と、本人がどこかで話したのでしょう。これが橋本会長や西岡常任委員の耳にとまり、「全視協事務所建設」という大事業に発展することになりました。
 82年の暮れから仮の事務所を賃借する一方で、翌年の福岡大会では、「事務所建設3千万円募金」の執行部提案が採択されました。
 加盟団体との連絡・調整や他団体との交流をさらに充実させるためにも、運動と活動と「砦」を築くことはまさに焦眉の課題となってきました。

藤野高明(大阪)

 新鮮な論議を始めたのは、81年頃からでした。話し合う中での、橋本宗明(はしもと むねあき)会長(当時)の発言が強い印象で残っています。
 橋本さんは、「先ず自分がどれだけ出血を覚悟できるかで、我々の気構えが定まる」といいました。そして、「1口15万円の大口カンパに応えてくれる会員が200人くらいはいるだろう」とも言いました。この言葉を聞いて、私は胸の高まりを覚えました。全視協を牽引する者としての気概と仲間への信頼感を感じたからです。

3 3千万円に向け動き出す

 福岡大会後の約4年間、全国がそれこそ心を一つに合わせ、創意工夫をしながら全力を上げて取り組みました。
 カンパ用の手製の点字領収証の綴りを作って、隔月で年5万円、3年で15万円。領収証綴りも4冊目、目標15万円を突破し、次の15万円をへと挑戦している。
 障害年金が支給ごとに1万円ずつ積み立てるお茶を担いで売り歩き、買い物の釣り銭をこまめに貯金箱に入れる。
 長い闘病の身で、点字による在宅投票を求める運動の中心人物であった村山明美(むらやま あけみ)さんもカンパに協力された。
 15万円の大口カンパを夫婦会員の場合2口30万円にして納めてくれる人たちも少なからずおられました。
 東京の組織は、津軽三味線の高橋竹山(たかはし ちくざん)コンサート(86年11月1日、練馬文化センター、1300人)を成功させ、その事業収益も含め1200万円のカンパで全国を勇気づけました。
 大阪は、全視協20周年大会の準備資金作りに取り組みながら、事務所カンパも680万円を集めました。
 血のにじむような結果が、目標の3千万円を大幅に上回る3800万円の超過達成という輝かしい成果として実を結びました。

4 念願の事務所が建つ

 そして、1987年3月1日、東京都荒川区西尾久に事務所を開くことができました。この年は、全視協結成20周年の節目の年にもあたっています。開所式には、全国の中間を始め、友好団体からの祝電やメッセージも多く寄せられ、お祝いの人たちも駆けつけてくださいました。心弾んだ日の事を今もよく覚えています。
 初めのうちは、専従者を置くこともできなかったので、雑草の会の職員や東視協の会員の協力で事務所を運営していました。

「事務所物語」から

 事務所は、全視協、東視協、雑草の会の共同利用ということだが、当時の専従は、まだ雑草の会の織田洋(おだ ひろし)さんしかいなかった。87年5月の『点民』に、「おおいてえ」という記事がある。
 「織田さんのもう一つの仕事は、『はい全視協です』、『はい東視協です』と、21畳の事務所を、あっちにぶつかり、こっちでつまずきの電話番です。おおお、いてええっ」。
 それから5年、退職し福祉活動に携わってきた平井久子(ひらい ひさこ)さんをアルバイトに迎え、文京盲学校退職の井上毅三(いのうえ きぞう)先生が入り、全税関職場復帰・馬渡(まわたり)闘争を縁の下で支えた岩元秀雄(いわもと ひでお)さんも退職後、今年から事務局次長に加わった。この高齢者パワーに、雑草の会の内田邦子(うちだ くにこ)さん、点字製版士の熊谷尚代(くまがい ひさよ)さんら婦人が加わり、昼間組は黄金時代を迎えている。夜は夜で、「アルバイト」を終えた男たちが集まってくる。往年の小日向光夫(こひなた みつお)さん、本田東(ほんだ あずま)さん、ピカピカの阿部正文(あべ まさふみ)君が事務局員に加わった。こちらゴキブリ組もますます健在なのである。

5 「日本障害者センター」に移る

 障全協の呼びかけで、障都連、全国肢障協、東京肢障協に全視協が加わって、5団体で実行委員会を作り、2千万円募金を得て、02年7月に「日本障害者センター」が開所しました。全視協は、15年間続いた西尾久から、新宿区大久保に事務所を移しました。

6 専従職員が現れた

 人と財政の問題をクリアして専従者を置くことができるようになったのは、97年の東京大会以後、阿部正文(あべ まさふみ)さんにお願いしました。
 05年10月の福岡大会後は、山城完治(やましろ かんじ)さんに代わり、現在に至っています。
 03年からは、職場介助者として佐藤直子(さとう なおこ)さんが勤務されており、何かにつけて助けてもらっています。

7 事務所の提供者が現れる

 会費収入は通常の活動を行う費用で精一杯のため、事務所費用と専従職員・職場介助者の給与は、3800万円の事務所建設募金を充てました。最初の10年間は、10年ものの一時払い養老保険を購入し、これを1本ずつ切り崩しました。当時は、100万円の保険金が10年後には160万円くらいになりました。
 その後、低金利・ゼロ金利政策がとられるようになると、Tシャツの販売、カレンダーの販売、続いて、会員1人当たり1千円の事務所維持資金を加盟団体にお願いしても足りずに、年間で250万円ずつ目減りしました。09年には、残額が2400万円になり、残り10年で枯渇する深刻な事態に陥りました。
 対応策を見いだせないでいる矢先に、東視協会員の杉田直枝(すぎた なおえ)さんから事務所提供の申し入れがありました。物件は、東京都豊島区駒込にあり、地上5階・土地面積は20坪のものでした。ご厚意を有り難くお受けすることにし、09年の石川大会、11年の愛知大会の議論を経て、資産管理のため、11年6月8日に一般社団法人全日本視覚障害者協議会の認証を受けました。ビルの名前は、感謝の気持ちを忘れないように、直枝ビルとしました。
 新しい事務所を「日本障害者センター」の諸団体と共同利用することについて提案しましたが、構造上、電動車椅子の出入りができないというので、実現には至りませんでした。
  87年の事務所開所から27年、1千数百人の会員でよく持ちこたえてきたと思います。さらに、杉田直枝(すぎた なおえ)さんのご好意により、会議ができて、泊まれる夢の事務所が完成しました。資産管理のための法人格も取得できました。この砦を拠点に、全視協運動のさらなる歩みを続けて行きたいと思います。ありがとうございました。

編集後記

 パソコンやインターネットの普及していない時だったから、紙のデータは貴重な情報源でした。どんな小さなメモも、ビラでさえも、記録をつけたり、原稿を書くための宝でした。
 荒川区の事務所で、岡村章三(おかむら しょうぞう)さん、高橋修二(たかはし しゅうじ)さん、阿部正文(あべ まさふみ)さんと東郷で、毎週金曜の夕方から日曜の昼まで、事務所に泊まって、電話を掛けたり、原稿を書いたり、整理をしたりしました。予定の仕事が終わる深夜になって飲みに出かけました。
 盆と正月には、3日掛かりで事務所の片付けをして、資料をファイリングしました。
 今回、全視協の資料室で、古文書を探すような気持ちで、過去の資料をあさっていると、ふとなつかしく、そのころの思い出がよみがえってきました

写真 NTT前の104有料化反対国民会議の面々、赤地に白字ののぼり旗が冴える。
写真 小選挙区制導入反対で参議院前で座り込む仲間たち。

 (増刊号おわり)