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点字民報 2023年2月号 通巻680号

2023年2月5日 更新

 目次と主な記事をお知らせします。

目次

特集 上野孝司さん没後50年、裁判はいかにして起こされたか
オンラインテーマ別集会「同行援護」報告 担当理事 藤原義朗
全国委員会報告
連載 見えない子たちとともに11 親は、一人の人間として自分の人生を生きる その2 江口美和子
総務局コーナー
 1 点字署名のお願い
 2 鉄道死傷事故ゼロの日
 3 頒布会
全国と地域の主な予定
東西南北 「石川」「埼玉」「神奈川」

(目次、終わり)

主な記事

特集 上野孝司さん没後50年、裁判はいかにして起こされたか

 公共交通機関への点字ブロック敷設の契機となった上野孝司うえのたかしさんの東京山手線高田馬場駅ホーム転落轢死事故は、73年の2月1日でした。今年2月1日は没後50年の記念の日となります。

 孝司さんの死後、当時の国鉄を相手取って起こした上野裁判は、75年に裁判が提起され79年に東京地裁で勝訴しました。国鉄が控訴したものの、国鉄民営化を控えた86年に東京高裁で和解が成立しました。国鉄は公共交通機関として乗客の安全を守らなければならないという和解文は、上野正博さんの勝利と言っても良い内容のものでした。

 全視協は、他の視覚障害者や盲学校関係者、当時の国鉄職員らとともに、上野裁判を支援し国鉄利用者の命と安全を守って闘ってきました。

 今回は、上野孝司さんのお兄さんである正博さんが書いた、裁判を起こすまでの手記を掲載します。正博さんは、すでに19年11月に逝去されています。

ひとりの視覚障害者の死をこえて

(東視協25周年記念誌より)

 上野孝司が国電高田馬場駅ホームから転落死亡してほぼ2年を経過した1975年1月、わたしはこの事故の真実を突き止めたいという思いを断ち切ることができず、訴訟を起こすことを決意した。この2年の間、事件直後から孝司の学友や弁護士の人たちと話し合った結果である。

 事故の直後家族は深い悲しみに打ちひしがれたが、わけても母の悲しみはわたしに大きな苦しみを与えた。頭の中を絶えず事故のことが駆けめぐった。何かしなければという思いが胸に消えなかった。

 社会に衝撃を与えたこの事件は、なにか現代社会の大きなひずみを隠しているのではないか。そこのところを国鉄に問いつめてみたいと思った。

 そこでまず孝司のヘレンケラー学院の友人に話をきくことにした。同級生で親友の若宮康宏わかみややすひろさんは、孝司の在学中のことをいきいきと語ってくれた。

 盲人となった人は日常生活がすべて不自由になるが、特に読み書きが大きな制約を受ける。中途失明者が点字を読むには非常に難しい技術を習得しなければならないのだ。点字は1センチ四方の中に12の点があるが、そのひとつひとつを指先で読み分けることの難しさは一度点字に触れてみると良くわかる。

 40歳を過ぎた人が点字を読めるようになるには、ひとつの条件がある。それは失明という事実である。弱視の人が点字をマスターできないのは結局少し見える視力に頼るからであると言う話であった。全盲の人はまさにそれを乗り越えなければ前に進むことができないのだ。点字はひと文字を打つことにも手数がかかる。孝司が夜遅くまで点筆をうつ音が耳によみがえってくるようであった。

 歩行にはもっともきびしい、技術と言うより修練が求められる。歩行には多くの危険が伴うし、命にかかわることがあるからである。歩くことはどんなに上手になってもこれでいいと言うものでもない。なぜなら盲人の歩く先には絶えず新しい環境が待っているからである。付添い人がいるか、自分でよく知っている場所以外では、盲人はいつも緊張を強いられているのだ。白杖は絶対手放せない。

 生前孝司に聞いた話があった。白杖を突いて道を歩いていると後ろからトラックが走って来て止まった。何事かとたたずんでいると運転手が「なんだめくらか」と言って走っていったと言うのである。この時の屈辱の思いは忘れられなかった。

 それからしばらく経ってからのことである。孝司が白杖を突いて歩いているところへトラックが来て車輪で白杖を撥ねた。トラックがいったん止まったがすぐに逃げようとしたので思わず「まてー」と大声を上げた。トラックが止まった。この時彼は抑えられていた盲人に対するさげすみへの怒りが体の中で一気に噴き上げたのだ。運転手は杖を拾ってきたが杖はふたつに折れ曲がっていた。幸い日本点字図書館の近くだったので、運転手と一緒に行って白杖を弁償させた。

 そのうちほかの学友も話し合いにだんだん来るようになって、ヘレンケラーの学校生活が兄のわたしにもわかってきた。そのときわたしが強く感じたのは、あんま・マッサージの技術を習得する人たちの強烈なエネルギーである。資格を持たなければ生きてゆけないというつきつめた思いもあるであろう。だが、それだけではない、もっと底力のある何かがある、と感じたのだ。

 孝司は、網膜剥離でこの国鉄事故の4年前に最後の視力を失った。それまでは隻眼弱視ながら労働の現場で働いていた。失明すれば仕事はできなくなる。そこで家に帰ってきた。労働災害は容赦なく仕事を奪ってしまう。しばらくはどうすることもできない苦しさで自分の中に閉じこもったのであろう。まさにどん底である。人生の途中で失明した人の避けて通れない道程である。どん底はどこまでいっても自分で味わわなければならない辛く苦しい道である。どん底はつづいた。

 しかし、やがて自分の中に、立ち上がる力が頭を持ち上げてきたのを感じたのだ。ようやく自分を取り戻し学校に通うようになって、学業に専念するようになった。そのころから少しずつ元気になって、住んでいる団地の自治会活動にも参加するようになり、団地のなかの問題をめぐって夜遅くまでわたしと論争することが多くなった。孝司は話し始めるとなかなか負けん気が強く、喧嘩別れになることも多かった。わたしは孝司がようやく前の弟に戻ってくれたように思えて嬉しかった。

 3年生になったころには、卒業を控えて限られた学校生活のなかではあるが、第二の人生を歩み始める展望が見えてきた状況であったと思う。そして、そのころ彼ははじめてふたりで寄り添って生きてゆける女性ともめぐり合ったのである。

 さて、上野裁判は事故が起こってから訴えるまでに2年を要している。そのためらいには事情があった。それはわたしが前に裁判というものを経験していたからである。この裁判について簡潔に述べておこう。

 それは1963年(昭和38年)に遡る。1月、寒い日の夕方わたしと会社の同僚の2人は電柱へのビラはり中を逮捕された。この事件は「軽犯罪法違反」として起訴され、出版労働者として労働組合や日本国民救援会の支援をうけてたたかった。この裁判は上野裁判とは異なり刑事裁判であり、わたしたちは被告であった。つまりその時のわたしは犯罪者として検察に訴えられたのである。この事件はあきらかに政治弾圧であった。

 1審の東京地裁で有罪、2審の東京高裁で控訴棄却(つまり有罪)、さらに上告したが最高裁は1972年6月6日上告棄却、有罪、科料5百円を言い渡し、10年にわたるたたかいは集結した。この経験から裁判がわたしに教えてくれたものはなにか。

  1. 裁判はすべて正義が勝つとは限らない。
  2. 莫大なお金と時間を費やす。
  3. 弁護士の正当な弁論が不可欠である。
  4. 多数の支援がなければ絶対に勝てない。
  5. 当事者は勝利するまでたたかわなければならない。

などである。

 この高田馬場事故が起こったのは1973年2月であり、10年をたたかったビラはり裁判が終わったのは前の年の6月である。まだ前の裁判のほとぼりが冷めていなかった。この事故にどう対応するか。気持ちの深いところでは国鉄は許せないと言う思いがあり、胸のうちから消えることがなかった。

 しかし、なかなか踏ん切りがつかなかった。そのうち少しずつ前向きに考えるようになったとき、初めて弁護士さんにその気持ちを打ち明けた。それが田中敏夫弁護士である。田中弁護士はあの困難なビラはり裁判を最後まで共にたたかった数々の弁護士のうちのひとりである。わたしに裁判をたたかうことの意義や厳しさを教え、そして励ましてくれた畏敬の存在である。田中弁護士の意見は次のようなものであった。

 この裁判は相手が国鉄であるから大変な力を結集しなければ勝てない。しかし訴える立場から言えばいくつか有利な状況がある。

  1. 高田馬場周辺の町にはヘレンケラー学院、日本点字図書館、日本盲人会連合など盲人関連の学校や施設があり、視力障害者の歩行者が多く、駅周辺は盲人や老人の安全地域に指定されている。
  2. 国鉄高田馬場駅は視力障害者の乗降客が多い。
  3. 最近鉄道駅での盲人の転落死亡事故が多くなっている。
  4. 国鉄は代表的な鉄道交通機関である。

などである。

 話を聞いているうちにわたしはある状況を思い出した。上野事故のあと、同じ鉄道死亡事故で亡くなった盲学校女生徒のお父さんを訪ねた時のことである。わたしが一緒に裁判をやりませんかと言うと、そのお父さんはただ一言、そっとしておいて下さい、と言ったのだ。わたしはちょっと気落ちしたが後で考えてみるとそのお父さんが喪(うしな)ったものは愛する娘であり、その苦しみや悲しみはわたしの気持ちとは別次元の深いものであったであろう、と思った。そして孝司と2人でこの裁判をたたかおうと心に誓ったのである。

 1975年2月19日訴状を提出すると、翌日の新聞に記事が掲載された。まもなく「東京視力障害者の生活と権利を守る会」から支援の申し入れがあり、そのあと国鉄飯田橋駅の労働者田中剛たなかごうさんから労働組合として支援の申し入れがあった。5月6日、「上野裁判を考える会」が結成された。

 このようにして5月13日、東京地方裁判所での第1回口頭弁論は、孝司の父上野みのる、母ヨシエを原告とし、日本国有鉄道を被告とする損害賠償裁判が、7人の弁護団を中心に力強く開始された。

(この稿、終わり)

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